昭和50年4月、葵幼稚園(大高源照園長)では四人の障がいを持った幼児の受け入れを始めました。当時の阿部勝治理事長はこう述懐しています。
○『葵幼稚園で四人の障害児を預り五十年にスタートするが、健常児の父母か らは「ウチの子と一緒にしないで」と強く反対された。反対の声はある日ぴ
ったり止まりました。運動会の競技で障害のある子の手を引っ張ったり、後 押ししたりする我が子の姿を目の当たりにし、大半の父母が感動した様子で
した。』(「十勝の百五十人」(東北海道新聞社発行より) ちなみに、阿部勝治理事長を紹介するこのページの大見出しは『十勝の障害
児教育の草分け』となっています。
さて、昭和50年は帯広の幼児教育事情は大きな変化の節目にあったと言えます。その要因の一つは園児数の増加傾向です。昭和39年、葵幼稚園は9名の園児から始まりますが、帯広市全体では1,281人が市内の幼稚園に通っています。12年経った昭和50年は葵幼稚園は107人、葵南幼稚園は144人、市全体では、2,393人です。実に1,000人を超える増え方です。当時の源照学園は、この増加傾向は今後も続くと判断しました。
そこで源照学園は、大空町にある葵南幼稚園の園舎増築に着手します。ホール、職員室、教材室等合わせて322u(97坪)の増築です。使用する資材は、市内の廃校から出る廃材を多く使用して経費削減を図りました。
昭和50年当時は、小中学校の統廃合が盛んでした。旧広野小学校、八千代小学校、拓成小学校を廃校し新しい広野小学校をスタートさせています。また、この年は帯広市で「第18回北海道私立幼稚園教育研究大会」が開催されました。全道から1,200人の私立幼稚園関係者が集まり、大谷幼稚園、聖公会幼稚園、東幼稚園、藤幼稚園で分科会を開いています。」スローガンは「ひとりひとりの子どもを生かす幼児教育を考えようでした。
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帯広源照学園 第2代理事長 阿部勝治氏 |
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