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学校法人帯広葵学園 理事長 上野敏郎  

第18楽章 ―こども新聞に見る昭和46年―

 昭和46年がどんな時代であったかを、手元にある『昭和こども新聞』から紹介します。

 先ずは何と言っても『帰ってきた!ウルトラマン』です。約2年半前に『ウルトラセブン』の放映が終わり、『ミラ―マン』『スペクトルマン』と正義のヒ―ロ―が続々と登場します。当時のこどもたちはその姿を自分に置き換えていい気分になったのでした。

 次は日本で発明され(発明者は日清食品の創業者安藤百福)、戦後最大の食品革命と言われたインスタントラーメン『即席チキンラーメン』1袋35円(ちなみにうどんは1玉6円でした)が登場したのは昭和33年でした。

 そして昭和46年は、第2のインスタントラーメン革命と言われた「カップヌードル」が発売された年です。ところがこの「カップヌードル」(カップ麺)の売れ行きは余りかんばしくなかったのです。原因は、通常の袋麺(約90〜100g)より麺の量が少ない(60〜70g)からではないかという説もありますが、1年後には売れ行きをどんどん伸ばすことになります。

 そのきっかけになったのは昭和47年2月19日から2月28日にかけておきた、あの連合赤軍による浅間山荘事件だというから驚きです。国民のほとんどがテレビにくぎ付けとなる事件でしたが、機動隊員が寒さの中で「カップヌ−ドル」を食べる様子がたびたび映しだされたことが、カップ麺を全国に普及させる役割を果たしたというのです。

 こんな世の中でしたが幼児教育の世界も熱を帯びていました。昭和46年10月5日、中央児童審議会は中央教育審議会が出した幼稚園・保育園一元化答申に反発して「幼稚園と保育園は併存すべきであり保育園の充実こそが重要である」とする答申で対抗しています。この頃から『幼保一元化』論争が盛んになってきたと言えます。

昭和46年(1971年)11月5日付 十勝日報の記事
 さて昭和46年当時、帯広市内には12の私立幼稚園がありました。十勝日報の記事によれば入園料は最低で4,000円、保育料はひと月3,000円でしたが、昭和47年度からは毎月の保育料だけが500円値上げされると報じています。そして入園募集数は全園で1,700人、うち葵幼稚園は135人、葵南幼稚園は80人となっています。

 この記事で注目する点は、今は普通になっている3年保育に対する考え方に当時はバラつきが見られることです。葵グループは3年保育派に入っています。


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